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平成23年度 広報はら9月号

更新日2021年3月11日

平成23年度広報はら9月号村長きよしの高原の風vol.1

またコラムが書けることとなりました。皆さんのご支持に感謝し、心機一転スタートします。

私の手元に一枚の写真があります。1950年まで八ヶ岳の主峰赤岳(2899メートル)頂上にあった諏訪頼水公と目される人物の銅像の写真です。写真の贈り主は森山亀重氏で、ある人の手を経て私に届けられ、村長室に収まっています。私にとっては特別な感慨を蘇らせる写真です。

私とこの像との出会いは、1949年、原中2年生での八ヶ岳学年登山の折です。横岳の険を越えて足の強い奴ほど前に出て、威厳のある束帯姿のこの像に突然出会ったのです。思わず身震いして通り過ぎましたが後刻父の説明では、山浦開発の祖諏訪頼水公ではないか、赤嶽さまとして崇められているとのこと。

この登山の余韻去りがたく、私たちは翌年中学3年生で、悪童10人程語らって無謀にも八ヶ岳登山を敢行しました。阿弥陀岳を越えて中岳の沢で幕営。軍隊装備の携天を繋ぎ合わせて寝たが、寒くて満足には眠れず、翌日は小雨模様。飯盒の飯も生炊け。それでも一行は意気軒昂、赤岳を目指しました。登る程に風雨強まり、頂上近しとは思われども一行は離散しそう。その時私はガスの薄まりの中に赤嶽さまの崇厳な姿を、確と拝したと覚知。しかし、風雨更に増し、少年の私たちはこれ以上の強行は命をも知れぬと撤退したのです。

赤嶽さまもそれっきり。というのは当時のカネヘン景気で赤嶽さまは蹴落とされてカネになってしまったのです。実に神をも恐れぬ所業、人間の欲ほど異なものはなく、世の中をおかしくしてしまいます。

私はこれが縁で以後登山に打ちこむことになり、ヒマラヤまでも股にかけることになるのですが、しかし少年ながらよくぞと、その時の正しい判断を今更ながら思うのです。当時の少年たちは自然児で生活力があったのだと思います。

山浦の新田鎮守として祀られた諏訪頼水公の像はかくして、今ではこの写真でしか忍ぶことは出来ません。私たちは欲望の暴走を戒めると共に、共存共栄の社会を築いて行かねばなりません。

一度この写真を見に村長室にお出掛ください。

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